この連載では、「つながる」という言葉を手がかりに、住まいや日々の営みを大切にしている人たちにお話をうかがっていきます。登場するのは、ものづくりに向き合う方や、食に携わる方など、それぞれの道を歩みながら、自分らしい暮らしを育てている人たち。聞き手は、これまで暮らしに関する雑誌や本を多数手がけてきた編集者・小林孝延さんです。
自分の住まいと、誰かとのつながり。自然とのつながり。家族とのつながり。小さな工夫やまなざしから見えてくる、豊かさのヒントをお届けします。
ついに届いた日本の荷物、その中身は



前編に引き続き、50代でパリに移住した猫沢エミさんのインタビューの後編です。コロナ禍に加えてロシアのウクライナ侵攻の影響で9か月もの間、日本から送った引っ越し荷物が届かないというトラブルに見舞われた猫沢さんですが、ついに荷物と再会できました。
無事に届いたときは、ほっとしたでしょう? 9か月って、相当な長さですよ。
「ほんとに。『タイムカプセルがやってきたなあ』と思いましたねえ」(猫沢さん)。
タイムカプセル! なんだかワクワクする響きです。税関のスタックが帳消しに......はならないかもしれませんが、楽しい気分で荷ほどきできそう。
「日本を発つときの私は、これまでの人生の、ある意味、生前終活みたいなみたいな気持ちで大量のものを手放して、東京の生活に区切りをつけました。でも、そこで残したものたちが、過去の時間を引っ提げてパリにやってきてくれたことによって、『東京の時間が私に戻ってきた!』と感じたのね。私が勝手に終わりだと思ったことは、次の始まりでしかなかったんです。これは面白い発見でした」
タイムカプセルの半分以上はキッチン道具とのお話でしたけど、(※)ちなみに、残りはどんなもので? ミュージシャンらしく大量のアナログ盤とか? おしゃれな猫沢さんのことだから、服やバッグや靴でパンパンだったとか?
「国際宅配便の人から『海外引越の担当をずっとやっていますけど、たぶんナンバーワンです』と言われたくらい服も靴も少なくて。中くらいの段ボール箱2個くらいかな。片づけの勢いに任せて、あれもいらない、これもあげちゃう!とバンバン手放して、最終的には完全に減らしすぎました(笑)」
でも、悔いてもないし困ってもなさそう、それどころか、パリのマダムらしく、おしゃれを楽しんでいる印象があります。
「服はいらない、というタイプでもないんですよ。体が小さくてバシッと似合うサイズを探すのが難しいこともあって、これと思うものに出会ったら即決で買います。一方で気に入ったコートが見つからないから10年買ってない、みたいなこともよくあって。だから好きになった服は、ほころびをダーニングで補修しながら長く着ますね。手持ちの服は20年選手が当たり前で、今日着ている服も25年前に買ったものです」
(※)詳細は前編をご確認ください。
猫沢エミさん インタビュー前編
生きるために必要なものは、ほんの少し



たくさん手放して海を越えて大移動して、スーツケース4つで暮らして。挙句、9か月ぶりに過去の時間を取り戻し......ドキドキの冒険譚を聞いている気分ですが、猫沢さんにとっては、怒涛の流れに身を任せるしかない移住にまつわる日々だったと思います。リビングの模様替えをするだけでもヒイヒイ言っている僕にとっては、想像するだけでおなか一杯です。
「ヤン(パートナーの名前)がいなかったら飲み込まれていたでしょうね。でも、その中で分かったこともあって、私が生きるために必要なものはほんの少しだけだった」
『生きるために必要なもの』は、『生活に必要なもの』とはまったく別物、ですよね。自分とこの世をつなぐ、かすがいみたいなものでしょうか。あるいは生きる力を供給してくれる元気玉みたいなものかもしれません。
「ひとつは、娘たち(初代メス猫のピキと四代目メス猫のイオ)の遺骨。これは手放せなかったですね。今は空にいる猫を含めた猫沢家みんなで移住したと思っています」
リビングに造りつけられた棚の1コマがその祭壇ですね。猫沢さんがお仕事をしてご飯を食べて、語らい寛ぐリビングの棚ですから、ほんとにいつも一緒にいるのですね。
「それから、もうひとつ。キッチンのコントワール(カウンター)に飾っているケーキドームですね。割れないように細心の注意を払って梱包し、引っ越しの荷物の中に入れました」
すっきりと美しい佇まいの中に温かみのある白磁のケーキドームは、猫沢さんの大切な友人ご夫妻である陶芸家の柏木千繪さんと、木工作家の圭さんの合作。もちろん飾るだけでなく、おやつの焼き菓子を入れておく実用品でもあります。
「不思議な感覚なのですが、このケーキドームは、東京のこれまでの時間とパリのこれからの時間をつないでくれる、時間のステーションのようなものだと思っています。触れていると、今を起点にして、過去と未来がつながっていることを自然と感じることができるんです。実はパリに移住後、木工作家の圭さんがお亡くなりになって。もともと圭さんは、この世とあの世の分け隔てがない雰囲気の方だったので、今もゆかいにコントワールの辺りにいると思っているのですが......そういう意味でも大切な作品。そこに自分で焼いたお菓子を入れておいて、お腹が空くと開けて食べるというのが、なんかいいなあと思っています」
盛大に手放すという行為を経たから分かった、生きるために必要なもの。自分にとってはたしてそれはなんだろう。実は今、僕自身も家の中を片付けて人生の棚卸し中なので、とても共感しました。
1脚のスツールをキッチンに置いたら...



素敵なキッチンのことを聞かせてください。料理好きの猫沢さんのことですから、キッチンにいる時間は長いですよね、きっと。
「はい、長いです。うちのキッチンはフランスによくある独立型。ちゃんと扉が閉まって、換気扇がないかわりに窓があります。一般的にフランスでは、キッチンに小振りのテーブルを置いて、そこで簡単な朝食を取ったり、アペロ(夕食前に軽くお酒を楽しむ時間)したり、そういう時間が生活のコアになっているんですよ。うちのキッチンにはテーブルを置くスペースはないけど、かわりに引っ越してきたとき、最初に買おうと思ったのが、ここに置くスツールでした。はじめは蚤の市でクラシカルな色合いのアンティークを探そう♪と目論んでいたけど、どう考えてもそんな時間ないわ、と気づいて。向かいの大型スーパーで買いました」
丸い座面に脚がすっと生えただけのシンプルな木製スツール。そんな、なんでもないスツールを担いでスーパーから出てきた猫沢さん。通りすがりのムッシュに「マダム、そのスツールどこで買ったんだい? そういう昔ながらのシンプルなものは、近ごろ売ってないんだよね」「このスーパーですよ。今ならまだありますよ」なんていうやりとりをしたそうで。
「スツールをキッチンに置いたとき、『あ、場ができた』と感じました。お茶を飲みながら音楽を聴いたり考えごとをしたり、ふと、ひとりの時間をもてる場所。キッチンにいると落ち着くし、フラットになれるし、自分の研究室にいるみたいな気持ちにもなれるのね。キッチンにいる時間が長くなるのは、そういう感じが全部好きだから」
研究室ですか! わかります。料理好きにとってキッチンは、試行錯誤の過程や食材が料理に変わっていく様子が楽しい、まさにラボ。研究員は猫沢さんとヤンさん、ユピとピガは......室長かな。
「ひとりで過ごすのも好きだけど、私か彼のどちらかが料理して、片方はスツールに座って、流す音楽を選曲するDJ係をしたり、ワインを用意したりします。そんなふたりの時間も最高に好きで。リビングにテーブルセッティング済みなのに、食事に来た友達みんなが、グラスを片手になぜか集まってくるのもよくあるパターンです」
気を許した仲間がわちゃわちゃ集まってお酒を飲む時間は、さぞ親密で楽しいでしょうね。猫沢さんの友人は、男子も女子も料理をすることが好き、食べることが好き、もてなすことも大好きという人ばかりだそう。もちろんヤンさんも。それにしてもヤンさんが焼いてくれたステーキ、あれはおいしかったなあと今でもうっとりと思い出します。
「作り手によって新たな姿になった命は、それを食べた人の命の中に入っていく。料理って、食材のお葬式だなと前から思っていて。キッチンは生まれ変わる場所というイメージももっています。キッチンがいい感じなら、命の転換がうまくいっているということだから、家族みんなが幸せな状態と言えるんじゃないかな」
どんなインテリアでも説得力が生まれる



引っ越し前、おしゃれな店で厳選したいと思っていたインテリアや日用雑貨、気づけばスツールと同じ、大型スーパー出身のものがかなりを占めていたそうです。あんなものもこんなものも、たとえば猫のベッドやかご、カーペットなどの大物も。が、そこはさすがのパリ、センスの水準が高いせいか、猫沢さんのセレクトや配色が上手なのか、ちゃんと素敵にまとまっているから不思議です。
「そこがパリのすごさですよね。あとから知ったのですが、そのスーパーって、おしゃれな有名ブランドからデザイナーさんを引っ張ってきてるんですって。だからヘタなブランドよりも気が利いている、と友人たちが口を揃えて言ってました」
不思議はもうひとつ、インテリアに関する誉め言葉でよく『生活感がない』と言いますが、猫沢さんの部屋は生活感がしっかりあって、それが部屋の空気をちょうどよい濃度にゆるめている気がします。つまり、お邪魔したとき、居心地が大変よかったのでした。
「完璧すぎて疲れる家はいやだし、自分のセンスで100%固めましたみたいな部屋にもリアリティを感じません。自分の趣味と違うものを受け取るのも好きなんですよ、私。たとえばおばあちゃんからお土産にもらった変な置き物なんかも、『えー......』と思いつつ飾ります(笑)。いわゆるSNSで披露するために作り込んだような部屋にはまったく興味がないし、パリの友達もみんなそうですね。小さなアパルトマンだろうが豪華なおうちだろうが、インテリアに関しては、自分が快適かどうかだけ。どんなインテリアでも、そこにその人の生き様が現れていれば説得力が生まれますよね」
ということは、猫沢さんが理想とする暮らしの空間を言い表すと......。
「快適さと生き様がせめぎ合って、ちょうどいいところで落ち着いている感じ。私にとってはそれが理想的。東京のマンションもそうでした。遊びに来た、あるアーティストの友達が『なんだろう、この実家感。めっちゃ落ち着くわ~』って言っていて。私も『実家のつもりで、いっぱいごはん食べて帰りなよ』って。この家もやっぱりそうで、私が住みさえすればどこにあっても自分の家になるという自信ができました」
どこにあっても、地球の果てでも私が住めば私んち。その自信、めちゃくちゃ無敵じゃないですか。思い切って移住をしたからこそ得られた自信ですね。強い。
特別で満ち足りた普通の日々



「東京にいた頃は、特別なことといえばやっぱりイベントや行事でした。そういう『特別枠』のために特別な準備をして。それはそれで楽しい暮らし方でした。でも、パリの暮らしでは、日常の1分1秒が特別だと感じるようになりましたね。ベランダで青い空を眺めながらコーヒーを飲んでいる時間が特別で、本当に贅沢だなと感じるし、なんなら、ただ息をしていることが特別で。逆に悲しいことがあったときには防ぐ手段がなく、ダイレクトに受け取ってしまうのがパリなんですけど。でもやっぱり、今生きているこの瞬間が特別だと感じられる暮らしは、いいものだなあって思います」
それって、欠けているものがないという証なのでは。愛するパートナーが横にいて、黒い毛と茶色い毛の息子たちがのび~っとしていて。生きるために必要なものは手元にあるし、仲間とおいしいものと、いい音楽もともにある。
「私と彼も、もう60歳目前です。歳とったらどうする?とよく話しますが、私たちはたぶんパリを拠点にする暮らしは捨てないんだろうな。今のこのちっちゃいアパルトマンで、私はすごく幸せで、十分に満ち足りているから」
なんだか無性に、猫沢さんちに遊びに行きたくなりました。いくらかでもパリのエスプリを感じられたらいいのだけど。そのときは、もらってもうれしくないようなへんな置き物をお土産に持っていきますね(笑)。
インタビュー後記

photo by 関めぐみ
「生きるために必要なものは、そう多くはない」。
猫沢エミさんが語るその言葉にはパリでの日々から生まれた確かな実感がありました。スーツケース4つで始まった50代での海外移住。9か月遅れて届いた「タイムカプセル」のような荷物は、東京の時間を抱えてやってきて、過去と現在をやさしくつなぎ直してくれました。なくても暮らせた日々があったからこそ、ほんとうに必要なものが浮かび上がってきたといいます。
完璧に整えた部屋ではなく、生活感や偶然の組み合わせを含んだ空間。そのほうが、その人らしさがにじみ出て、居心地のよさが生まれる。猫沢さんの住まいは、そうした「生き方の延長」として形づくられているように感じました。インテリアを考えることは、結局は自分の生き方を考えることにつながっていきます。どこに住んでいても「ここが私の家」と思える自信。その源は、家具や装飾の豪華さではなく、自分にとって必要なものと誠実につながる姿勢なのだと、猫沢さんの話から教わりました。
フォトギャラリー
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エッセイスト 猫沢エミ
ミュージシャン、文筆家、映画解説者、生活料理人。2002年に渡仏。2007年より10年間、フランス文化に特化したフリーペーパー〈BONZOUR JAPON〉の編集長を務める。超実践型フランス語教室〈にゃんフラ〉主宰。2022よりフランスへ再移住、現在パリ在住。「ねこしき」(TAC出版)他、著書多数。11月26日、死生観について綴った編集者・小林孝延との往復書簡「真夜中のパリから、夜明けの東京へ」が、集英社より出版予定。

企画・インタビュー 小林 孝延
編集者・文筆家。ライフスタイル誌、女性誌の編集長を歴任。暮らしまわりの書籍を多数プロデュース。出版社役員を経て現在は株式会社「イン-ヤン」代表。連載「犬と猫と僕(人間)の徒然なる日常」(福井新聞fu)、「真夜中のパリから、夜明けの東京へ」(集英社よみタイ)ほか。著書に「妻が余命宣告されたとき、僕は保護犬を飼うことにした」(風鳴舎)がある。
Instagram:@takanobu_koba
構成:みやざき しょうこ
写真:井上 実香