国内外の建築や都市を研究する建築史家として活躍しながら、建築家としても自然との調和を重視した建築を追求する藤森照信氏。書籍「建築探偵」シリーズなどでもおなじみの藤森氏に建築史家、建築家としての半生について伺いました。
書籍が売れて 「びっくり」、一般の方たちに手伝ってもらった屋根工事は「意外に楽しんでくれた」、つくったモニュメントが「そんなに関心を呼ぶとは思っていなかった」など、インタビューではさまざまな「想定外」が発見できました。

藤森照信氏の人物写真

建築家・建築史家  藤森 照信
1946年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。近代建築史・ 都市史研究を経て45歳のときに神長官守矢史料館(1991年)で建築家としてデビュー。
代表作にタンポポ・ハウス(1995年)、ニラハウス(1997年)、高過庵(2004年)、近作にラ コリーナ近江八幡:草屋根(2015年)、銅屋根(2016年)など。現在、江戸東京博物館館長、東京大学名誉教授。

子どもの頃の大工の手伝いが建築の道へ誘う

最初に、建築学科に進もうと考えたきっかけを教えてください。

子どもの頃から建築が身近だったことは大きいと思います。小学校2年生の時に、江戸時代の民家を建て替えて実家にするという工事があって、母の実家で大工の修行をして棟梁になった人が、私の家に1年間泊まり込んでその仕事をしていました。私も、かんなクズの片付けなどの手伝いをさせられていましたが、時々、意味が理解できない手伝いをさせられました。例えば、古い松の梁材(りょうざい)を再利用するために「ほぞ穴」を開けるのですが、「そこに水をさしておけ」なんて指示をされました。なぜそんなことをするのか、その時は分かりませんでしたが、朝になると、そのまわりに水が染みて木が柔らかくなっており、掘りやすくなっているわけです。そのような技術やノウハウを逐一教えてくれました。手伝いは嫌でしたが、建築がどういうものかがよくわかって、とても面白かったです。その原体験などがあったので、大学進学時に建築を選択しました。

インタビューを受ける藤森照信氏1

大学では建築史の研究をされ、研究者の道に進まれました。理由を教えてください。

実は、大学に進んでから初めて設計と施工の学問が分かれていることを知りました。設計も施工もどちらも好きでしたが、子どもの頃から建築は設計・施工は未分離の世界という認識だったので、分離している世界は面白くないと思ってしまい、職業として設計だけをしていくという選択が考えられませんでした。一方で、歴史は昔から好きでしたし、日本の近代建築史は明治の最初期までしか着手されていない時代でしたので、ぜひ研究したいと考えていました。その時にはもう職業として研究者になるつもりでしたので、学部卒業後は、当時、日本の建築史研究の指導的立場にいらっしゃった東京大学の村松貞次郎先生の研究室に入るために東大の大学院に進学し、研究者としての活動を始めました。

「建築探偵団」や「路上観察学会」といった活動は、一般の方たちにも知られています。これを文章にされたのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか?

『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房/1986)書影の画像
『建築探偵の冒険・東京篇』(筑摩書房/1986)書影

建築探偵団は近代建築研究のために、大学院時代、昭和49年に結成しました。その後、建築評論家の長谷川堯さんに「あなたの書く文章は面白いから、建築探偵団の話を一般向けに書いてみたらどうか」と言われて、旭硝子の広報誌『GA(GLASS & ARCHITECTURE)』に執筆したのが、論文ではない初めての原稿です。その原稿が元で、森英恵さんが創刊した『流行通信』で経済人類学の栗本慎一郎さんと対談をすることになったり、杉浦康平さんが表紙デザインをしていた文化服装学院の『季刊 銀花』で執筆をしたりすることになりました。それを今度は、筑摩書房の編集者だった松田哲夫さんが読んで、それらの文章を集めて一冊の本にしたいと言ってきました。しかし私としては、一般の人向けに書いた文章を本にすることに全く興味がなかったので、しばらく放っておいたのです。そうしたら、私が建築業界の専門誌に書いた文を使って、実際の本のような形にして持ってきました。しかも各ページには、「この文章は不足があるからもっと書き足して」とか「この項目の文章がなかったから書き下ろして」とか書いてあったのです。もうびっくりしたのですが、流石にそこまでされたら了承せざるを得なくなって引き受けたのです。それが「建築探偵の冒険・東京篇」(筑摩書房、1986年)として発行されました。

「建築探偵団」のようなお話が一般の人々に受け入れられることは、執筆前から想定されていたのでしょうか?

「建築探偵の冒険・東京篇」の内容は、施主の人柄やその家の様子、その建物に向かう時に見た道や街の様子などをエッセイにしたものでした。当時は建築をそのような切り口で書いている人は全くいませんでしたし、一般の人たちに面白がられるとは一切思っていませんでした。それなのに、予想に反してだいぶ売れたのでびっくりしましたが、一般の人たちがそのような話に関心があると知る大きなきっかけとなりました。

神長官守矢史料館を設計し、建築家デビュー

45歳の時に神長官守矢史料館を設計された後は、建築家としての活動の割合が大きくなっていきました。その経緯を伺ってもよろしいでしょうか。

神長官守矢史料館は、博物館としての機能と地域性、歴史観との兼ね合いなど、色々と苦労しながらつくったものでした。この設計を終えた時、卒業設計の時に最後と思っていた設計活動を続けたくなっていました。そうは言っても、建築設計の分野ではまだ実績もなかったので、まず自邸として「タンポポ・ハウス」をつくり、それを見た赤瀬川原平さんが自邸(ニラハウス)の設計を依頼してくれました。その後、路上観察学会でご縁ができた秋野家が美術館の設計者を探していた頃、たまたま息子さんに神長官守矢史料館をお見せしたら「この人にお願いしたい」ということになって、「秋野不矩美術館」を手がけることになりました。このように、身近な方々の建築をやっているうちに色々とお声がかかるようになっていったという経緯です。

藤森さんの作風は独特ですが、設計作業はどのように進められているのでしょうか?

私にはスタッフがいないので、基本的に設計はスケッチだけです。とにかくスケッチを大量に重ねながら、素人の方に手伝ってもらう部分を想定しながら設計を進めます。というのも、赤瀬川さんのニラハウスの屋根の上にニラを植えようとした際に、防水面での補償ができないということでプロが引き受けてくれなかったので、赤瀬川さんの教え子や友人知人関係者が集まって施工をしてくれた時の体験がありました。みんなに文句を言われながらの作業になると覚悟をしていたのですが、これが意外にも楽しんでくれました。私としては、素人の建設業への従事は、戦後すぐの国の失業対策としての日雇い労働というイメージを持っていましたから、普通の人が建築の工事に興味を持つことなんてないと思っていました。建築に興味を持ってもらえるのは、建築界にとっても良いことなので、素人の方にも一部を手伝っていただくようにしています。

ニラハウスの屋根工事の様子
ニラハウスの屋根工事
ニラハウス全景の写真
ニラハウス全景

藤森さんの建築といえば、自然や自然素材を大切にされているように思います。どのような思い入れがありますか?

必ず自然の素材を使うと決めています。ただ、地元の建材に拘っているわけではありません。メンテナンスで交換することになっても現地で調達できれば楽なので、地元の材を使えると一番良いとは考えていますが、同じ地球の素材なので、どこの材を使っても木は木ですし、石は石ですし、土は土ですから、材としてはそれほど大きな違いはないとも考えています。

理想を最も表現できた「ラ コリーナ近江八幡」

藤森さんが建築家として大切にされていることは何でしょうか?

自然の素材をきちんと使うということは大事にしています。僕が設計をする時にテーマにしていることが2つあります。1つは、建築に現代の科学技術と自然素材の両方を使って、その間の矛盾を見せないようにすること。もう1つは、植物をどう建築に取り込むか、ということ。設計の依頼を受ける時も、そのようなテーマに取り組めるかということは大切です。また、植物を建築で取り扱うか取り扱わないかに関わらず、建築のメンテナンスをずっとできる人かどうかも大きいです。それとそのお施主さんに興味が湧くかどうか。興味が湧くような方でないと、面白い建築はできませんし、長いお付き合いになりますので、とても大事にしているところです。お会いしてみて、お断りすることもあります。

インタビューを受ける藤森照信氏2

藤森さんの作品の中で、自分の理想を最も表現できたと思われているものはありますか?

先ほどの2つのテーマを一番実現できたという意味で、近江八幡市の菓匠「たねや」グループが施主の「ラ コリーナ近江八幡」が思い浮かびます。背後の八幡山の山並みと、草で覆われた大きな三角屋根が一体となった光景をつくり出していますが、建築と山は別物であることがわかるようにデザインをしました。また、たねやは自社製品のために、自社で農場を所有し、農産物の生産もしているので、植物管理のノウハウがあります。そのため、草屋根のメンテナンスも安定して出来ています。そのようなことから、自分としてはよくできていると思っています。

たねやさんからは、どれだけ建築費がかかったか聞いていませんが、地元の銀行からたねやに出向されてきている方が、中庭につくった扉がついた小さなモニュメントについて「あれは結構な費用がかかりましたが、それだけの価値のあるものだ」と言ってくれたことがありました。たくさんのお客さんが写真を撮るそうで、大きな宣伝効果があるようです。出入り口しかないモニュメントですが、それがそんなに関心を呼ぶとは思っていませんでした。新しい発見でした。

「ラ コリーナ近江八幡」の草屋根(2015)の写真
「ラ コリーナ近江八幡」の草屋根(2015)
「ラ コリーナ近江八幡」の中庭のモニュメントの写真
「ラ コリーナ近江八幡」の中庭のモニュメント

今後も作品をつくり続けたい

若い建築家、建築の世界を目指す学生に向けて一言お願いします。

建築は非常に多くの要素でできています。たくさんの雑多なものが集まった世界です。それを最終的にまとめることで出来上がります。ですから、何をやっても建築につながりますし、何かしら自分を生かす道があります。図画工作が好きなら、建築への関心をなくさないでいてほしいと思います。

藤森氏が常に持ち歩いているという愛用のスケッチブックを見せる写真
藤森氏が常に持ち歩いているという愛用のスケッチブック

最後に、これからの目標や夢などがあれば教えてください。

これからも建築をつくることに飽きることはないと思います。建築的な問いに対する答えがなかなか浮かばないこともありますが、全く飽きません。私は昔から、今日が何日か、何曜日か、よくわからなくなることが多いんです。研究の日々は本当に自由でしたし、設計活動も好きなことを毎日やっているような生活なので、「毎日が日曜日」みたいな感覚です。槇文彦先生は「家族に感謝されたことがない」という名言を残していますが、家族からしたら、父は遊んでいるのか働いているのか分からないけれど、ずっと好きなことをやっているから、家族のために稼いでいるわけではないと思われている、ということだそうです。これには「なるほど」と思いました。これからの目標と言われると困りますが、そういう世界におりますので、今後もずっと作品をつくり続けていきたいと思っています。

2025年4月20日に開催した藤森照信氏によるトークイベントを動画でご覧いただけます。
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インタビューを受ける藤森照信氏3

建築家 藤森 照信 トークイベント
歴史研究・路上観察・建築設計の活動から紐解く「自然と調和する建築」

長野県茅野市の「神長官守矢史料館」をはじめ、自邸の「タンポポ・ハウス」や「ラコリーナ近江八幡」など藤森氏が手掛けた事例を取り上げ、歴史研究・路上観察・建築設計の3つの活動内容を紐解くとともに、自然と調和する建築を語ります。

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リビングデザインセンターOZONEにてインタビュー(2025年4月収録)
取材・文/藤 繁和


※2025年5月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合がございます。