人々のライフスタイルへの意識や、働き方などが大きく変容している昨今、建築とその周辺領域に対して求められる職能も変化が求められている。
「WEB OZONE」では、建築を中心とするクリエイターたちの「仕事術」をテーマにインタビューを行うシリーズを2022年3月にスタートした。彼らはどういったことを日々考えながら仕事をしているのか。その先に何を見据えているのか。インタビューによってそれらが浮き彫りなることで、読者それぞれの仕事に置き換えてみる、そんなきっかけになればと考えている。

連載第八回となる今回は、2人の建築家によるユニット、トラフ建築設計事務所(以下、トラフと略)が登場。禿(かむろ)真哉氏とともに事務所を率いる鈴野浩一氏に、都内にある彼らの事務所で話を聞いた。

「若手建築家」と呼ばれてきた2人だが、1つ年長の鈴野氏が1973年生まれで、ともに50代に突入し、2004年2月の事務所設立から20周年を迎えた。インタビューで鈴野氏は「そういえば、20年ですね」と、初めて気づいたかのように笑ったが、《テンプレート イン クラスカ》でデビューして以来、トラフへの仕事の依頼は途絶えたことがないという。これはすごいことではないだろうか。
彼らが世に送り出したプロジェクトの幅は広く、住宅、商業店舗、展覧会の空間デザインのほか、家具やプロダクトも多く、トラフのホームページの「WORK」アーカイブは一度では見切れない。
このトラフの仕事術とはどのようなものなのか? まずは、鈴野氏が建築家を目指した経緯から尋ねてみた。転機になったプロジェクトなどについても詳しく聞いていく。

鈴野 浩一(すずの こういち)氏 プロフィール

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1973年神奈川県横浜市生まれ。1996年東京理科大学工学部第一部建築学科卒業、1998年横浜国立大学大学院工学部建築学専攻修士課程修了後、1998~2001年シーラカンス K&Hに勤務。2002~2003年にオーストラリア・メルボルンにある設計事務所・Kerstin Thompson Architectsに勤務。帰国後の2004年に禿 真哉とともに株式会社トラフ建築設計事務所を設立、同氏と共同主宰。

建築の設計をはじめ、インテリア、展覧会の会場構成、プロダクトデザイン、空間インスタレーションやムービー制作への参加など活動は多岐に渡り、建築的な思考をベースに取り組んでいる。東京・目黒にあったHotel CLASKA(ホテル クラスカ)の客室リノベーション《テンプレート イン クラスカ》でデビュー。以降の主な作品に、2007年《NIKE 1LOVE》、2008年《港北の住宅》、《空気の器》などがある。2011年のミラノサローネにおけるキヤノンの展示ではWOWとともに展示デザインを担当し、《光の織機》がエリータデザインアワード最優秀賞を受賞。2013年にAesop(イソップ)の渋谷店のデザインを手掛けて以降、約20店舗を担当し、2024年9月に南青山店がオープン。
トラフとしての著作に、2011年『空気の器の本』、作品集『TORAFU ARCHITECTS 2004-2011 トラフ建築設計事務所のアイデアとプロセス』 (ともに美術出版社)、2012年絵本『トラフの小さな都市計画』 (平凡社)、2016年『トラフ建築設計事務所 インサイド・アウト』(TOTO出版)などがある。

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イソップ 南青山(2024)Courtesy of Aesop, ©Norihito Yamauchi

Boy Meets Architecture

ーそもそも、どうして建築家になろうと思ったのですか。

鈴野 世の中に建築家という職業があると僕が知ったのは、けっこう早くて、小学生の頃でした。実は僕、勉強があまり得意ではない子どもだったので、親が心配して、家庭教師をつけたんです。その人が、横浜国立大学で建築を学んでいる人だった。大学の帰りに家庭教師をしてくれていたから、課題の建築模型を携えてくるわけです。僕は図画工作は得意だったから、大人になっても工作みたいなことができるんだって思って。世の中にどんな職業があるとか何もわかってない年頃で、そういう出会いがあった。

それで、小学校5~6年生の頃に、夏休みの自由研究かなにかで、自分が住んでいた家の模型をつくって出したんです。自分が住んでいた横浜の実家は、祖父母が建てた家で、古い屋根瓦まで1枚1枚つくって張った凝ったもので、先生とか、自宅の台所の改修にきていた業者さんからもものすごい褒められたんですね。そういう幼少期の成功体験って大きいじゃないですか。だから結構、早い段階で、建築を選びたいと考えていました。

ーそうして東京理科大学に進み、大学院は横浜国立大学へ。

鈴野 大学の学部は建築の意匠系を教えている理工学部ではなかったので、建築家になった同期は多くないんじゃないかな。僕は菊池 宏くん(※1)と親しくしていて、彼とはスイスにピーター・ズントーの建築を見に行ったり、色々と刺激を受けました。

※1 菊池 宏(きくち ひろし)氏
1972年東京生まれ、1996年東京理科大学工学部第一部建築学科卒、1998年東京理科大学大学院工学研究科建築学修了。2000年から2004年まで在籍したHdMでは、プラダ青山店などを担当。2004年より菊地宏建築設計事務所主宰。2018年より武蔵野美術大学教授。

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インタビューを受ける鈴野氏の背後には、これまで手がけてきたプロジェクトの模型やモックアップなどがずらりと並ぶ

事務所設立のきっかけはホテルの客室リノベーション

ートラフは禿さんとのユニットですが、生まれも年も出身大学も、勤務先も違います(※禿氏は1974年島根県生まれ、明治大学および大学院の出身。2003年まで青木淳建築設計事務所勤務)。どのタイミングで接点があったのですか。

鈴野 僕が最初に勤めたシーラカンスK&Hの同期が明治大学の出身で、禿の先輩でした。面識はあったものの、禿とユニットを組むきっかけになったのは、2003年に開業したHotel CLASKA(以下、一部でクラスカと略)での仕事です。
僕は、シーラカンスを辞めたあと、1年ほど働いていたオーストラリア(豪州)から帰国したばかり。禿も青木淳さんの事務所を退所するというタイミングで、クラスカのリノベーションを手がけていたUDSに入社した大学の後輩から客室改装の話がきた。予算が少なかったので、駆け出しの建築家に依頼してくれたのです。トラフとして3部屋を担当しました。

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テンプレート イン クラスカ(2004)撮影:阿野太一

ークラスカは、鈴野さんたち建築家やデザイナーが参画して既存のホテルを改修した、リノベホテルの先駆けとなった、伝説のホテルですね(2021年に閉館)。トラフのデビュー作となったこのクラスカが発表されたとき、斬新でありながら、どことなく懐かしさを覚えました。

鈴野 クラスカの「テンプレート」は、作図ソフトもCADも大学に導入されていない学生時代を過ごした者にとって必須のアイテムだった、プラスチック製のテンプレートからきています。僕らの身体に染みついた「テンプレート」をインテリアに転用しました。

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クラスカの「テンプレート」 ©︎ トラフ建築設計事務所

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テンプレート イン クラスカ(2004)撮影:五十嵐真

「トラフ」命名の経緯

鈴野 この時、僕も、おそらく禿も、クラスカの仕事だけのつもりでタッグを組んだのです。終わったらコンビを解消する予定でした。だから事務所名も、2人の名前を冠さずに「トラフ(TORAFU)」とした。意味をよく聞かれるんですけど、耳障りの良さ、音(おと)だけで決めたから、意味は何もないんです。

ー南海トラフの「トラフ」でもなく?

鈴野 それもよく言われるけど、全く関係ありません。何の意味もない、3文字の造語です。3文字という数は、なんとなく「トウフ(豆腐)」みたいな柔らかいイメージにしたくて(笑)。南海トラフが一般名称化したのは2011年以降だと思うのですが、2003年当時、調べた限りで「トラフ」は出てこなかった。クラスカを請け負うために事務所名が必要だと迫られて、テンプレートをレーザーカッターで加工中という佳境の中で、ああでもないこうでもないと禿と二人で捻り出したのが「トラフ」でした。

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「クラスカ」のテンプレートをレーザーカット中の様子 ©︎ トラフ建築設計事務所

オーストラリア渡航の背景

ークラスカの前に話を戻します。鈴野さんの最初の勤務先は、工藤和美さんと堀場弘さんが率いるシーラカンスK&Hでした。どのあたりに魅力を感じて志望したのですか。

鈴野 その前に、僕は、山本理顕さんの事務所で数年ほどアルバイトをしていました。そこでは中村竜治くんに会ったり、コンペを担当させてもらったり、いろんな経験をさせてもらいました。
その頃、鳥取砂丘がある国立公園内に博物館を建てる設計競技があって、1等に選ばれたのがシーラカンスでした。僕は理顕さんの提案を横目で見ていたので、てっきり理顕さんが獲るとばかり思っていたから、これを上回るとはどんな建築なんだろうかと。ちなみにシーラカンスは、このコンペの直後に、小嶋一浩さんら複数の建築家によるユニットが解消されて、シーラカンスK&H(以下、K&Hと略)となった工藤さんと堀部さんの事務所が鳥取砂丘のプロジェクトをやることに。これに関わりたいと、K&Hに入所しました。

ーでも結局、K&Hのコンペ案は実現しませんでした。

鈴野 そう、残念ながらアンビルドです。でも、とてもいい建築提案でした。希望通りに現場を担当させてもらった僕は、現地で市民とワークショップをやったり、当時にしてはかなり進んだ取り組みをしていたのですが、実現しなかった。国立公園なので、その舞台裏はとても大変でした。

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鳥取砂丘

ー鈴野さんは海外の設計事務所で勤務経験があります。昔も今もヨーロッパ志向の建築家は多いと思いますが、豪州を選ぶとは、珍しいですね。

鈴野 豪州の建築家はグレン・マーカット(※英国出身、豪州を拠点とした建築家)しか知らなかった頃です。今のようなインターネット検索でなんでも出てくる時代じゃないから調べようもなく。でも、スイスに渡っていた菊池くんから情報は入ってきていて、彼から聞かされる海外の設計事務所での働き方が、とてもいいなぁと思っていました。勤務中の食事から週末の過ごし方まで、日本とはぜんぜん違う、とっても豊かなんです。

ーお抱えシェフがいて、カフェレストランが併設されていたりする。スタジオ・オラファー・エリアソンのオフィスなどはレシピ本まで出版していたり。でもなぜ、そこでスイスではなく豪州に?

鈴野 僕が勤めていたK&Hに、ナイジェルさんという豪州出身の方が短期契約でやってきたんです。彼は仕事をスピーディにこなすとても優秀な建築家で、僕ら日本人スタッフが残業続きなのを横目にスッと定時であがっちゃう。いったいどうしたらそんな働き方ができるんだろうかと不思議でしょうがなかった。それで、僕が2001年にシーラカンスK&Hを退所したとき、ふと、彼を思い出して、会ってみたいなと。日本国内でのコンペ要項を手土産に渡豪しました。「このコンペおもしろそうだから一緒に応募しようよ」という誘い文句を口実に、転がり込んだ(笑)。
結局、その日本のコンペには落選したのですが、メルボルンで暮らすうちに、メルボルンという街、都市がおもしろくなってきた。ナイジェルさんが教えてくれた、カースティン・トンプソンの事務所(Kerstin Thompson Architects)で働けることになり、すぐにオーストラリア・ガーデンに建てるビジターセンターのコンペに出すから担当してと言われたのには驚いたけど、K&Hでの経験もあったので、頑張ってプレゼンをつくって出したら、1等が獲れた。

ーいきなり1等とは、すごい。

鈴野 豪州に渡航したときは、現地の設計事務所に勤めようなんて実は考えてもいなかったんですけどね。でもカースティンとは、おそらくやりたいことのベクトルが似ていたのでしょう。トラフがこの10年ほど担当しているイソップの店舗デザインを、彼女も数多く手掛けています。

コンペで勝利したそのビジターセンターを基本設計までやって、日本に帰国しました。そのタイミングで、先ほど話した、ホテルクラスカの客室の内装をやらないかという打診があり、青木淳さんの事務所から独立するタイミングだった禿とユニットを組んだ、という流れになります。

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禿氏と鈴野氏のプロフィール写真(事務所設立当初のもの)

ーそれぞれ得意な領域があると思いますが、禿さんとはどのような役割分担になっているのですか。

鈴野 禿は、ドラフターを使ってた学生時代からCADに代わった今でも、事務所でこつこつと図面を引くのが得意ですね。僕ももちろん図面は引けますけど、いろんなアイデアを出したりディレクションするほうが好きかな。

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回転体(2004)撮影:中川敦玲
宿泊施設に置かれるシャンプーなどの各種消耗品・備品などを扱う商社のショールーム改装計画

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井の頭の住宅(2005) 撮影:阿野太一

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UDS上海オフィス(2005)撮影:阿野太一
透明板ガラスにストライプ状の模様を蒸着したミラーを目隠しとする間仕切で構成されたオフィス空間

転機となったプロジェクトその1:Hotel CLASKAでのきづき

鈴野 クラスカのプロジェクトでおもしろいなと感じたことがありました。あのホテルは、駅から離れた、目黒通り沿いのローカルバスの終点地にあったのですが、2003年にホテルがオープンした前と後で、まちの様子が明らかに変わったのです。僕らは客室の改修を手掛けてから4年間、クラスカに事務所を構えていたので実感としてあるのですが、だんだんとおしゃれな店が増えていった。

ー時として建築は人を集め、そういった力を発揮しますよね。

鈴野 ホテルの客室に置くプロダクトや家具は通常、計画のいちばん最後に決まるものです。でも、僕たちがやった《テンプレート イン クラスカ》はそのへんの順序が逆で、テンプレートというアイデアがまずあり、開口部にピッタリと入る椅子やドライヤーを調べて、モノを先に選んだ。3つの客室に入れた椅子は3つとも変えるなど変化をつけています。そうやって、モノから客室空間が決まり、館内にもアートが置かれ、クラスカという建築ができ上がった。そういう小さなモノの集積によって、まちが大きく変わっていったという実感があります。「小さな都市計画」と僕は呼んでいるのですが、クラスカの客室は、見た目には平面的なんだけど、バリエーションしだいでいろんな空間をつくることができたし、その外側にある都市にも影響を与えることができた。おもしろい体験でした。

僕らがつくりたいのは、そんなふうに、周囲のまちやパブリックスペースがおもしろくなっていける、建築の外に影響を与えうる空間なんです。小さいものから、自分の身体サイズから考えて、最終的には都市にタッチする。
クラスカを担当した頃は、あの当時の大学教育とは逆の思考による設計・デザイン手法だったので、不安もありましたが、あのまちでの体験が、以降のトラフの活動を後押ししてくれました。「小さな都市計画」の考え方は、2016年にTOTOギャラリー・間で開催された、トラフとして初の大規模個展「インサイド・アウト」に集約されています。

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TOTOギャラリー・間「インサイド・アウト展」ポスター(2016)

インタビューの前編はここまで。
後半は、このクラスカが出発点となり、4年後に手がけることになった、グローバルブランドのナイキ(NIKE)のプロジェクトからスタート。トラフの設計で主軸となる「インサイド・アウト」の考え方についてさらに話を聞いていく。彼らのキャリアで極めて重要となった「出会い」など。

取材・文/遠藤 直子


※2024年12月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合がございます。

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