島崎 信×萩原 健太郎 クロストーク vol.2
「民藝の巨匠たちから、住まいづくりを学ぶ」前編

2022年7/9(土)に開催した、島崎信先生と萩原健太郎さんのクロストークセミナーの様子を、前編・後編のテキストアーカイブにてお届けします。
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※開催は終了しています。

今回のテーマは「民藝の巨匠たちから、住まいづくりを学ぶ」

"民藝"とは民衆的工芸の略で、無名の職人の手でつくられた生活用具の中でも実用性と美しさを兼ね備えた工芸品を指します。
さらに、大正末期に思想家・美術評論家の柳宗悦らにより、民藝の品々の価値を認め、守り、育てるという民藝運動が展開され始めました。

・民藝運動の父、柳宗悦
・医師であり、民藝のプロデューサーでもあった吉田璋也
・京都を拠点に活動した陶芸家で、柳の右腕的存在であった河井寛次郎


...といった民藝の巨匠たちの家や調度品などを切り口に、彼らがどんな家で・どのように暮らしていたかを掘り下げ、現代における私たちの家づくりとの相違について考えます。

また、現在も見学できる彼らの住居など民藝に関連するスポットの紹介も。
彼らの暮らしぶりを感じ取り、これからの自分たちの住まい方を想像してみてください。

前編は「民藝運動の父、柳宗悦」「京都を拠点に活動した陶芸家で、柳の右腕的存在であった河井寛次郎」のお話をご覧ください。

― プロローグ

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島崎このセミナーは、住まいをつくるにあたって、どういうことを考えたらいいか、というのがテーマですが、そういうかたいことだけではなくて、いろいろな雑学、違う切り口の話もできれば、参考になるんじゃないかと思っております。

前回も申し上げたように、良い建築家、良い工務店に頼めば、良い家ができるというのは妄想です。この地球上で、あなたが建てられる家というのは、唯一のものなんです。住まい方というのは、家族によって違うんだから、住まい手が自らの住まい方を考え、その希望を設計者に伝え、それに耳を傾けてくれる設計者と取り組む。ル・コルビュジエとか、アルヴァ・アアルトが良いとか言う人は相手にしない方がいいんです(笑)。あれは、向こうの国、風土でのことなんだから。

今回は「民藝」をやるんですが、民藝というのは、すでに柳宗悦とそのグループがやったことです。もともとは、関東大震災で柳宗悦が京都へ移住したときに、東寺の朝市に行って、昔から使われている皿とか、茶碗とか、いわゆる「下手物」を見て、美を感じ、集め始めたことから始まっています。庶民の生活のなかで、日常的に使われてきたもの、デザイナーがつくったものでもブランドでもないもの、そういうもののなかにこそ美しさがある、と。それらに民衆的工藝品、略して「民藝」というスタンプを押したわけです。

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萩原先生が解説していただいたことに少し補足させていただくと、
「庶民の生活のなかから生まれた、素朴で郷土色の強い実用的な工芸。民衆的工芸の略。大正末期、柳宗悦らによる造語」
という一文にまとめられます。つまり、今日本人が、民芸調とか、民芸店とか、普通に使っている言葉というのは、実はまだ生まれて100年にも満たない言葉なんです。そして、
「思想家の柳宗悦が仲間とともに生み出した言葉であり、新しい美の視点であり、生活文化運動」
として展開していきます。あと、先生がおっしゃった京都での出来事ですが、誰も見向きもしなかった下手物に対して、「上手物」という言葉があります。たとえば、江戸時代の武士が身につけたものや、千利休の茶道具などが該当しますが、それらに対しては、すでに美の視点があったわけです。そう考えると、無名の職人がつくった庶民のための日用品に、美を見出し、守り育てていこうとした柳たちの思想は画期的だったといえます。

それで今日は、
「民藝運動の父、柳宗悦」
「京都を拠点に活動した陶芸家で、柳の右腕的存在であった河井寛次郎」
「医師であり、民藝のプロデューサーでもあった吉田璋也」
「民藝の巨匠たちの家から、現代の家づくりについて考える」
という4つのテーマを設けて話を進めていきます。特に柳宗悦、河井寛次郎、吉田璋也といった民藝を代表するプレイヤーたちが、どういう思想で家を建て、調度品をあつらえ、暮らしていたのか、ということにフォーカスをあてたいと思います。

まずは、柳宗悦から入りたいと思います。

― 民藝運動の父、柳宗悦

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日本民藝館西館(旧柳宗悦邸)

萩原柳宗悦のプロフィールは、次の通り。
「民藝運動の創始者。思想家。東京都港区生まれ。学習院高等科在学中に、雑誌『白樺』の創刊に参加。1913(大正2)年、東京帝國大学(現在の東京大学)を卒業。その後、朝鮮陶磁に心惹かれる一方、国内の手仕事を調査、蒐集するなか、無名の職人がつくる下手物のなかに美を発見します。そして25(大正14)年、【民藝】の新語を生み出し、民藝運動を本格的に始動。36年、日本民藝館が開館すると、初代館長に就任しました。『工藝の道』『民藝とは何か』『手仕事の日本』など、多数の著書があります」

日本民藝館のちょうど向かいに、「日本民藝館西館」と名づけられていますが、旧柳宗悦邸があります。栃木県から移築した石屋根の長屋門と、それに付設した母屋から成り立っていて、日本民藝館の開館の1年前の1935年に完成しました。柳が自ら設計を手がけていて、72歳で亡くなるまで生活の拠点としました。今も公開されていて、見学することもできます。

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柳兼子記念室

建物としては、2階建てになっています。1階の玄関を入って右手には、柳兼子記念室があります。柳の妻の兼子さんは日本を代表する声楽家で、近代声楽法の確立に大きく貢献したといわれています。余談ですけど、北大路魯山人と柳は仲が悪かったそうで、魯山人はことあるごとに、「兼子さんが儲けた金で、お前は全国で散財して...」などと言って、柳を口撃していたそうです。

島崎私は、アルト歌手である柳兼子さんのコンサートを何度かお聴きしているのですが、日本の声楽のパイオニアであるだけでなく、下世話な言い方になりますが、柳宗悦の活動を経済的に支えていました。宗悦はほとんど稼いでいなくて、朝鮮で美術館を建設するというときでも一緒に行って、コンサートをやって、入場料の収入を費用にあてたという話もあるほどです。それでいてね、宗理さんをはじめとして、3人のすばらしいお子さんを育てていらっしゃるし、ぜひ、柳兼子という名前は覚えておいてほしいと思います。

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食堂(手前)・客間(奥)

萩原柳兼子記念室から通路を隔てたところに、食堂と客間があります。1階の食堂にはゲートレッグテーブルと英国のラダーバックチェアーが並びます。奥には和室を設けて床の間を配しています。日本風というわけではなく、西洋を取り入れた和洋折衷の暮らしをしています。

島崎この椅子は、イギリスの庶民が使っていた「ウィンザーチェア」です。ウィンザーチェアというのは、民藝の活動とたいへん関係があります。というのも、陶芸家のバーナード・リーチが、同じく陶芸家の濱田庄司をイギリスへ連れて行き、セントアイブスに窯を築いたのですが、濱田はウィンザーチェアを持って帰国するんです。ウィンザーチェアは、いわゆる庶民の下手物なわけですよ。それを松本の池田三四郎が参考にして、松本民芸家具を始めたわけです。

萩原2階に上がると、民藝美論や仏教美学など、多くの著作が書かれた柳の書斎があります。この机は、民藝の同士で、木工家の黒田辰秋がつくったものです。

島崎柳宗悦は、民藝で有名ですけど、宗教哲学者でもあります。庶民のなかで使われ続けているということと、宗教的な背景というものが同一のところに近づいてくるというところに行き着きます。若い頃から白樺に参加して、英語が達者でしたから、ロダンに手紙を書いて彫刻を贈られたり、ウィリアム・ブレイクを日本に紹介したり、能力の高い人であったことは間違いないですね。

萩原生涯を通して朝鮮と関わり合いを持った浅川兄弟との出会いは、兄の浅川伯教がロダンの彫刻を見たくて、柳を訪れたことがきっかけでしたよね。

島崎そうそう。そのときに、伯教が朝鮮の白磁を持って行ってね。当時は、青磁が尊ばれていて、白磁は下手物の扱いでした。でも、柳はその美しさに感動して、下手物に目を見開き、朝鮮に行ってみたい、となり、1924年、ソウルに「朝鮮民族美術館」を開館するに至るわけです。人の縁がつながっていくのがおもしろいですね。

萩原次に、京都を拠点に活動をした陶芸家で、濱田庄司とともに柳の右腕的存在であった河井寛次郎について話をしていきたいと思います。

― 京都を拠点に活動した陶芸家で、柳の右腕的存在であった河井寛次郎

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河井寛次郎記念館

萩原河井寛次郎のプロフィールは、次の通り。
「陶芸家。島根県安来市生まれ。1910(明治43)年、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)窯業科に入学。そこで出会った濱田庄司とは、終生の友となりました。14(大正3)年、京都市立陶磁器試験場に入所し、おもに釉薬の研究に励み、20(大正9)年には、現在の【河井寛次郎記念館】の場所に、住居と窯を構えます。当時は、東洋古陶磁を意識した雅やかな作品に取り組みましたが、24年に濱田を介して柳宗悦と出会ったことで、【用の美】を大切にした作風に一変します。陶芸については、とりわけ釉薬と型物に秀でたほか、木彫、金属、書などにおいても才能を発揮しました。民藝運動においては、全国の窯場に足繁く通い、実践的な指導を行いました。島根の出西窯や兵庫の丹波立杭焼など、特に西日本の窯場には大きな影響を与えました」

柳は陶芸家ではなかったので、柳が理想とするうつわを、河井と濱田がかたちにしていった、というイメージです。

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1階

島崎柳宗悦が最初に親しくなったのは、バーナード・リーチでした。それでリーチが濱田庄司と親しくなり、イギリスのセントアイブスに連れて行ったりするのですが、その後、濱田から河井寛次郎を紹介されて、人間的にもすばらしいということで付き合うようになりました。それからは、濱田と河井の2人が柳を支えるようになりました。

萩原河井の拠点が、京都の五条坂にあって、現在、河井寛次郎記念館として公開されています。建物のみならず、館内の家具や調度類も河井のデザイン、あるいは蒐集によるもので、それぞれ個性を発揮しつつも、不思議な統一感を生み出しています。河井の本分は陶芸ですが、書や金工など、さまざまなものを手がけた人なんですね。

写真をお見せすると、通りは意外と狭いです。車一台がようやく通り抜けられるほどの路地にあります。

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記念館配置図(※出典:河井寛次郎記念館)

島崎京都ですから、奥が広いんですね。

萩原こちらに移り住んだのは1920年頃といわれていますが、今の建物は1937年に建てられたもの。配置図を見ると、先生がおっしゃったように奥に広い、縦に長い建物です。

受付を右に入ったところが、囲炉裏がある居間のようなスペース。囲炉裏に吊るされた自在鉤も河井の設計です。京町家風の外観に対して、なかは太い柱や梁など重厚なつくりになっています。


萩原2階の一角が河井の書斎になっていて、壁には河井が詠んだ歌が貼ってあります。「仕事のうた」という歌ですが、河井が深くかかわった郷里の島根の出西窯では、今でも朝礼で詠まれるそうです。
ちなみに、こういう歌です。

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吹き抜けを通してつながる1階と2階

「仕事が仕事をしてゐます
仕事は毎日元気です
出来ない事のない仕事
どんな事でも仕事はします
いやな事でも進んでします
進む事しか知らない仕事
びっくりする程力出す
知らない事のない仕事
きけば何でも教へます
たのめば何でもはたします
仕事の一番すきなのは
くるしむ事がすきなのだ
苦しい事は仕事にまかせ
さあさ吾等はたのしみましょう」

そして中庭があり、最奥に登り窯があります。

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島崎柳にしても、河井にしても、この人たちの住まいやしつらえを見ていますと、ある意味ではいい時代に暮らしておられたなあ、と思いますね。どういうことかというと、今日のコマーシャルのように、社会から押しつけられるようなことがない時代だったわけです。自分の目で見て、気に入ったものを置くということに徹しているわけですね。あるオランダ人が私におもしろいことを言いました。
「日本人というのは、盆栽から始まって、庭園などの景色にしても、美しいものにすごく敏感ですね。しかし、醜いものについてはすごく鈍感ですね。だから、身辺に醜いものがあっても、なんとも思っていない。昔の人は、敏感なところを通していて、ほんとうに豊かな暮らしをしていたんですね」
豊かな暮らしというのは、ブランドとか、お金で測るものではないんですね。自分の目に適った、愛着のあるものに囲まれた暮らしを、豊かな暮らしというのだと思います。

柳宗悦、河井寛次郎を見てみると、やはり見る目を持っていたということだけではなくて、生活をする姿勢というものにスタンディングポイントを持っていたんですね。だから、自分で集めるだけではなくて、場合によってはつくらせるということもしていたのでしょう。

萩原最後の3人目が、吉田璋也です。

―前編はここまでです。後編は、
「医師であり、民藝のプロデューサーでもあった吉田璋也」「民藝の巨匠たちの家から、現代の家づくりについて考える」
についてのクロストークをお届けします。

クロストークセミナーvol.2 後編はこちら

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シリーズ第4弾開催!「北欧の冬ごもり~家でのヒュッゲな過ごし方」

本クロストークシリーズvol.4「北欧の冬ごもり~家でのヒュッゲな過ごし方」を、2022年11/12(土)に開催いたします。
島崎先生・萩原さんに対面でご質問等をしていただけるリアルの場での開催となります。ぜひご参加ください。

詳細はこちら

島崎 信(Makoto Shimazaki)
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1932年、東京都生まれ。
56年、東京藝術大学卒業後、東横百貨店(現東急百貨店)家具装飾課入社。
58年、JETRO海外デザイン研究員として日本人ではじめてのデンマーク王立芸術アカデミー研究員となり、60年、同建築科修了。
帰国後、国内外でインテリアやプロダクトのデザイン、東急ハンズ、アイデックの企画、立ち上げにかかわるかたわら、武蔵野美術大学工芸工業デザイン科で教鞭を取る。北欧やデザインに関する企画やセミナー、著作などを数多く手がける。
武蔵野美術大学工芸工業デザイン科名誉教授。
北欧建築デザイン協会理事、日本フィンランドデザイン協会理事長、公益財団法人鼓童文化財団特別顧問、有限会社島崎信事務所代表。

萩原 健太郎(Kentaro Hagihara)
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ライター・フォトグラファー。
1972年生まれ。大阪府出身。関西学院大学卒業。
株式会社アクタス勤務、デンマーク留学などを経て2007年独立。
東京と大阪を拠点に、デザイン、インテリア、北欧、手仕事などのジャンルの執筆および講演、百貨店などの企画のプロデュースを中心に活動中。北欧、インテリア、民藝を中心に多くの著書がある。
日本文藝家協会会員。日本フィンランドデザイン協会理事。北欧建築デザイン協会(SADI)会員。

萩原健太郎オフィシャルサイト「Flight to Denmark」


※2022年9月時点の情報です。最新の情報とは異なる場合がございます。

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