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日用品の肖像 [portrait of daily necessaries]

剣持勇という巨星



「LIVING DESIGN」8号より
撮影/林雅之 文/橋場一男


1950年代の北海道は、未だ裕福な地とは言えないのが実状だった。人々は厳しい亜寒帯の気候と向き合い、広大な大地を持て余し、この地の行く末を模索していた時代だった。その50年代半ばのこと、札幌の工業高校を卒業し家具問屋で働いていたT青年は、東京から届いた一冊の雑誌に目を奪われる。その誌面には「デザイナー」という言葉とともに、剣持勇、渡辺力、豊口克平らの仕事が紹介されていた。雑誌とは1955年に創刊された「木工界」である。

当時、デザインという言葉はまだ一般化しておらず、その頃、デザインのいちばんの担い手であった百貨店装飾部にしても「デザインはサービス」の域を出ていなかった。その「デザイン」という無形のものだけでメシを食う「デザイナー」の存在に、Tは驚いた。デザイナーという生業が成り立つ世界がある。これが時代の流れなのか。とりわけ「デザイナー剣持勇」はひときわ輝いて見えた。その衝撃が彼の将来を大きく変えていく。

「剣持先生の下でデザインの仕事をしたい」。高校在学中、父親を亡くし、家庭の事情で仕事に就かざるをえなかったTは、このまま北海道で仕事を続けるか、それとも東京の剣持を訪ねるか、大きな岐路に迷う。そして大胆にも、志に怯まず後者の道を選ぶ。Tはこれといったあてもないまま、単身東京へ向かった。

上京したTは、今のままの無学な自分では、剣持に会ってもらうことすらできないだろうと考えた。まず、剣持先生と面談するにふさわしい人間にまで、自分を高めよう。怯む心を鍛えるために、Tは大学へと進んだ。大学では図面や絵画の技術をひたすら身に着け、わずかな余暇は岩波新書を開いて先人の英知を求めた。それもこれも、剣持に近づきたい一心から生じた向学心だった。

そして卒業後、Tは念願の剣持デザイン研究所に入所を果たす。剣持は具体的にあれこれと仕事を教えることはなかったが、剣持の日々の行いのすべてがTの教科書になった。剣持の存在はますます大きくなっていく。この頃、剣持デザイン研究所が手掛けた仕事に「ホテルニュージャパン」(1960年)のインテリアがある。ここで剣持は東南アジアのラタンを使い、三次曲面の美しいラウンジチェアをデザインする。達磨のように座りの良い形状。しなやかな籐の質感。籐家具と言えば夏だけの季節ものというイメージも一蹴する、堂々たる風格。発表から4年後には、ニューヨーク近代美術館のパーマネントコレクションに選定された。推挙したのは、バウハウスで学び、後に教鞭をとったマルセル・ブロイヤーだった。モダニズムの意識が関わることで、アジア土着のハンディクラフトはエキゾチックなだけの商品から脱却し、モダンな製品として国際的な評価を得るに至る。底の浅いゲイシャスタイルの輸出品の時代は終わろうとしていた。

入所7年目でTは独立し、家具メーカーや建築設計事務所とデザインの仕事を始める。一方剣持は、60年代の終わりから、西新宿旧淀橋浄水跡地の再開発で、日本のインテリアデザイナーの職能を世に知らしめる大きなプロジェクトに着手し始めた。建築業界の関係者の多くが当たり前に認識していた、「建築家の下にインテリアデザイナー」という暗黙の構造。これをひとたび平地に戻し、建築家もインテリアデザイナーも、同じ地平から共にデザインの旗の下で「空間」を築きあげたのが西新宿の「京王プラザホテル」だった。剣持はデザイン委員会統括顧問としてディレクションに当たり、剣持の下を離れたTは建築設計事務所の協力スタッフとして、超高層ホテル「京王プラザホテル」の設計に関わっていた。

構造体の鉄骨が組みあがり、その巨大な姿が世の話題になり始めた頃、Tは現場で顔を合わせた剣持から「最上階まで上ろう」と誘いを受ける。現場作業用の頼りないエレベーターで屋上に至ると、剣持は足場の上をたんたんと渡って下を見おろせる端のほうへと進んだ。Tはあまりの高さに足がすくみ、そろりそろりと後を追う。「先生危ないですよ」と言う震える声が届いていたのかどうか。剣持は怯むことなく緑の足場に立ち「おい見てみろ!高いなあ」と荒涼たる空き地が広がる西新宿の更地を眺めていた。

1971年「京王プラザホテル」はオープンを迎える。従来の重厚でクラシカルなホテルとは違い、剣持を始めデザイン委員会の総意でもあった「モダンデザイン」でまとめられたインテリアは、若々しい先進的な雰囲気に満ちていた。建築雑誌やデザイン雑誌はこぞってこのホテルを採り上げ、その多くは剣持の大きな仕事を讃えた。しかしその翌月号のページに載せられていたものは、剣持の死を追悼する文章だった。

自ら生命を絶った剣持に対し、やはり疲れていたのだろうという声が多かった。葬儀の席でTは棺にねむる剣持を目にして、あまりに大きく見えていた剣持が、実は自分よりもずいぶんと小柄だったことに気づくと、言葉にならない何かがこみあげてきたという。

剣持デザイン研究所は、日本のインテリアデザイン界に多くの人材を輩出し、現在も公共施設のインテリア、家具、鉄道車両を始め、さまざまなデザインを手掛け続けている。「ホテルニュージャパン」のためにデザインされた籐のラウンジチェアは、現在も製造されており、息の長いロングセラー商品となった。日本近代美術館に行くと、佐藤忠良と船越保武の彫刻作品が対に並ぶ2階展示フロア奥に、ジョージ・ナカシマのコノイドチェアと一緒に、このラウンジチェアが置かれている。

「18歳で父親を亡くした自分にとって、剣持先生はデザインの父親だった」とTは振り返る。
いつしか、故郷の北海道は観光地化が進み、札幌も寒さや雪に負けない大都市になった。最近はデザインを学ぶ学生に、剣持勇の名前を知らない者がいるという。あの時代では考えられないことだとTは嘆く。そして、剣持勇という偉大なデザイナーに憧れて、同じ道を選んだTもベテランデザイナーと呼ばれるようになった。

Tが10代の頃、札幌で手にした雑誌「木工界」は、その後「室内」と誌名を変え、今日も発行されている。


アームレス・ラウンジチェアC-3150

サイズ:W810 D780 H780・SH380
YMK製
デザイナー:剣持勇

問い合わせ先:にっぽんフォルム




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